若狭姫神社

天徳寺〜若狭姫神社〜鯖寿司(2003/6)(2003/8/7追加)

 いつものように、天徳寺にご神水をいただきに行ったのだが、今回はどうしてもお世話になった若狭姫神社に御礼のお参りをしたかった。
 天徳寺というのは関西に縦に走る「水の道」の出発点とも言われる場所で、真夏でも冷やしておいた瓜が割れるというくらいの冷たさで、瓜破の水と言われている。岡野礼子の「陰陽師」で有名になったのでご存じの方も多いかもしれない。

 いつものように流れ星さんとの道中だ。鯖街道をどんどん北上して、鯖寿司を買う。鯖街道には何件かの店があるが、ピカイチでおいしいのがこの店だ。と言っても「マスコミの取材はお断り」とボスターが貼ってあるので、私も店の名前は書かない方がいいのかもしれない。店の前のスペースに屋根をつけて魚やら焼いて食べられるようになっている。大きな生け簀もある。見た目はあまりきれいな店ではない。捜すならこの程度の情報でみつけられると思う。
 久しぶりに訪れたので他の商品も眺めていると、鯖のぬか漬けというのがある。大阪では見たことがないが、この辺の名物らしい。鯖の漬け物だなんて、発想がすばらしいと思う。ふっくらとした身でなんともおいしそうなので買ってみた。これで今夜も泊めてもらうまゆみさん夫婦へのおみやげが出来た。
 
梅雨時で残念ながら雨がぱらついている。お水のおいしさから言うと、一週間は晴れの日が続いて欲しいが、この時期はそんな贅沢は言えない。
 天徳寺の奥にはお水の神様がまつられている。「水森神社」という名前で、たぶんお水がご神体なのではないだろうか。勢いよくわき出ているその場所に注連縄が渡してある。

 そして水音。半歩あるくと水音が違う。刻々と変化する水音に身をゆだねて歩く。身体中が癒されていくようだ。

 以前に「千とひとつの贈り物」というタイトルで読んで頂いたもので、天徳寺の水の場についてくそまじめに書いた文章があるので、これも読んでいただけたらうれしい。


 神社にお参りして御神水をいただいてくるのにこっている。
若狭にある天徳寺、瓜割りの水は、おいしさ、清らかさ、やさしさではピカイチだと思う。真夜中に家を出て塩鯖街道をひたすら北上する。夜明け前に天徳寺駐車場に車をとめられるようにする。駐車場ではすでにごうごうと水音が空気を洗っている。また来させていただけたことに感謝して、懐中電灯を横におきながらせっせとお水を汲ませていただく。ここのお水は真夏でも手がちぎれそうに冷たいので有名だ。


 ポリタンクを全部満タンにして、薄明るくなった川沿いをあがってゆくと、木立の中に川をわたる飛び石があり、その先に小さな神社がお祭りしてある。気品のある美しいお社だ。
 山や大地の中を通過し、自らを浄化し地球の栄養分をたっぷりと溶かし込んで、水はわき出てくる。その水をいただき、場を浄化する水音に身をさらしていると、私たちも水なんだ、ということがとても自然にわかる気がしてくる。この、たえまなくあふれる流れゆく水と私とは同じなのだ、と。細胞の一つ一つの水が共鳴するのかもしれない。

 そのここちよさに自分を開き、ゆだねていると、いつのまにかすっかり明るくなった空から、陽光が木々の間をすべりおりてくる。何かを得たり得なかったり、大切な人とうまくいったりいかなかったりするのとは全く別の次元の、満たされた幸せがここにある、と感じた。
 すっかりいい人になった帰りには、道の駅で、どこかのおばちゃんの名前の入った鯖寿司を買って朝食にする。鯖と昆布のまろやかな甘みが、しっかりと押された寿司飯にしみこんでいる。無言でひたすら食べる。

 運がいいと朝市があり、とれとれのべっぴんさんの野菜がニコニコで迎えてくれて、おもわず買ってしまう。幸せな野菜たち。こんな風におしみなく無限に何かを与えてくれるものたちと出会い、ただただ受け取ることの幸せの中に居続けていると、与えるでもない受け取るでもない、不思議な一体感の中に溶けていくような感じがしてくる



 ここのお水は本当においしい。お水を飲むということの当たり前の幸せを感じさせてくれる。私は水なのだ、水で出来ているのだ、ということを思い出させてくれる。

 それから若狭姫神社だ。私はここの杉の木にとてもお世話になった。
 初めて訪れたのは友人Sとだった。どうしても行きたくて、まだ流れ星さんと出会う前だった私は免許も車も持っている友人に連れて行ったもらった。その時のことは忘れられない。
 深い緑の間に大きな鳥居がある。一礼して入らせていただく。さらに門があり、その先にご神木の杉の木と本殿がある。
 その杉の木を一目見た瞬間、何かが私の内側で始まった。なんだかわからないが、泣けて泣けてしょうがない。何の理由もないのだが、涙が止まらないのだ。胸の奥で何かのタガがはずれたような感じだ。今思い返すと、時々お参りの人が来ていたから、きっと私を変に思っただろう。でもその時は、そんなことすら考える余裕はなかった。ただひたすら泣いた。

 小一時間してやっと落ち着くと、あたりを散策する余裕が出てきた。2本の木と小さな岩で作られた不思議な空間がある。たぶんそこは宇宙とつながっている場所だ、とSが確信に満ちた声で言う。そこに立ってみると、確かに不思議な感覚がしてくる。どこかに行ってしまいそうだ。

 二度目に訪れたのは、流れ星さんと出会った時だ。なぜかは分からないがどうしてもどうしても若狭姫神社にいかねばならない、という衝動に突き動かされて、連れて行ってもらった。
 鳥居の横に車を止めたあたりから、なんだか胸がドキドキし始めた。鳥居をくぐると、足が吸い寄せられるようにどんどん進む。そして杉の木。胸が熱くなり、そして全身がふるえだした。カタカタガクガクふるえて立っていることが出来ずに、流れ星さんの腕に必死で捕まっていた。頭も真っ白で何も考えられなかった。ただカタカタガクガクに身をまかせてふるえていた。30分程たってやっと収まった時には、疲れ果ててぐったりだった。何が起きたのかよくわからなかったが、今思うと私の中にある余分なエネルギーを浄化していただいたのではないか、という気がしている。

 というのはその後、明らかに変化したことがある。私は中学卒業後からずっとパンツをはいていて、どうしても必要な時以外にはスカートとかワンピースを着たことがなかった。自分が女性であるということに抵抗があり、いわゆる女らしさを否定して生きてきた。以前の写真を見ると、私はどう見ても少年の顔をしている。
 それがこの若狭姫神社事件以降は、私は女性であり、女としての人生を歩んでいいのだと思えるようになった。スカートをはいてもいいし、髪の毛を伸ばしても、化粧をしてもいい。ゴロニャンと甘えてもいいし、すねてみせてもいいのだ。
 私の人生は、その時を境に全く違うものになった。

 今回は久しぶりに御礼のお参りに行きたくなったのだ。
 木々の間の鳥居をくぐり、奥に進む。杉の木がそびえている。スックと立ち上がり堂々と枝をのばしている。この杉の木に目をやると、何か圧倒的なエネルギーを感じる。なんだかわからないが、人との関係の中では味わったことのない、濃厚で圧倒的で畏れ多い感覚だ。
 そうこうしているうちに、もう当たりは暗くて小さな電灯があちこちに付いていて、杉の木の大きさを浮かび上がらせている。
 
  もし仮にあのとき、流れ星さんとこの神社にお参りをしなかったら…どうなっていたのか想像がつかない。これ以上はないというベストのタイミングで呼んでいただいた。あり得ないような偶然をいただいたことに、ただ感謝した。

へしこの食べ方
 

その後は例によって綾部のまゆみさん宅になだれ込み、鯖街道で手に入れた鯖寿司とへしこを食べた。へしことは鯖を1年以上もぬか漬けにしたものだ。鯖を細く切ってぬかを落とす。ぬかは取って置いてフライパンで白ごまと一緒にから煎りする。お酒のあてにいいのだそうだ。もちろんやってみた。塩気も辛みもなく、鯖のおいしい油が熟成されたような味がする。ご飯に振りかけてもいいと思う。
 鯖は、どうも塩鯖を焼く感覚がぬけなくてけっこう大きめに切って焼いてしまった。辛かった。一切れでお茶碗一杯のご飯が十分に食べれる。これはやはり、薄く切ってサッとあぶって食べるのだろう。
 

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