私の「魔法の地図」
魔法の地図を手に入れる〜十牛図ワークショップin法然院報告


 十牛図とは、北宋(中国)の末頃に廓庵という禅師が描いた十枚の絵で、牛である「本来の自己」を人である「自我」が探し訪ねていく、つまりは 人の魂の発達を見事に描いた普遍的な地図なのです。時代、人種をとわず、私たちはこの道筋を通って成長していくようです。そしてこの普遍的な「魔法の地図」は、私たちのDNAの中にちゃんと記録されているのです。

 その、各自の内側にある
「魔法の地図」を訪ねての6ヶ月の旅が、この7月から始まりました。その報告を簡単にさせていただきます。

 私はアシスタントをさせて頂くということで、このワークショップが始まる前に、十枚全ての絵を一気に描かせていただきました。その時の絵と、今回じっくり学びながらの絵とが、随分違うのです。そのこともご紹介します。

 第1回目は7/4、第二回目は8/8でした。

 第一回目には、十牛図というものの全体を説明していただきました。そして第一図「尋牛」の絵を全員で描きました。十牛図の説明は、 岩田精治先生の著書「新しい自分と出会いたいあなたへ」や資料、その他を総合して書かせていただきます。

 
第一図「尋牛」本当の自分とは何か、という問いかけを始める時期で、本当の自分を生きていないのではないかという本質的な物足りなさを感じます。自分や人生に行き詰まり、「自分が問いかけそのものになる」のです。そして自力はこの時点で早々と尽き果てるのです。DNAの中に地図を持ちながらも、自意識が過剰で自己の存在に関しては無自覚です。

自分の過去を振り返ってみると、「私は誰なのか」「どこから来てどこに行くのか」「この世で何をなすべきなのか」という問いにとりつかれて、その問いをぶつける相手もなく、フロイトや心理学の本を読みあさったりしました。それらの本はたいてい難しすぎてよく理解できず、かといってどうしたらいいのか分からず、分からないままにさまよっていた様に想います。

 私が初めて描いた第一図は、混沌とした、自分でも不気味だと思うものでした。自分の中に訳の分からない制御不能のエネルギーを感じました。
このワークショップで描くと、なんと星でした。求める光がちゃんと存在するのだ、という感じと、この星の形の破れの向こうに何かがある、という感じがありました。

 そして第十図までのすべてのエネルギーを含んでいるような感覚が、ワークショップ全体にあったように想います。不思議でした。場がどんどん変化していくのが肌で感じられました。


 第二回目8/8は、第二図「見跡」と第三図「見牛」です。
今までの私の理解では、第二図も第三図もとても苦しい場所でした。求めても得られず、求め続けて行く情熱がなくなりそうになったり、得たと錯覚して有頂天になって転んだり。人生というのはこんな苦しい段階を長いこと過ごさないとだめなのかなあ、とため息でした。
 ところが今回先生が用意してくださった資料は、全然違うのです。
 何度も名前が出ていたのに覚えられなかったのですが、今年26才になる青年で、世界の7つの大陸を全て踏破している人で、北極から南極まで地球を縦に旅したり、世界最年少でエベレストに登ったりしている人でした。彼の語りはさわやかで、いわゆる偉いさんのパネラーたちの色あせて見えたこと。
 印象的だったのは、どこかの島の人に太古の航海術を学んでいるそうなのですが、その人が彼が船出をする時に
「今から行く島のビジョンが見えているか?」と質問するという話でした。
 島は遙か彼方で影も形もないのですが、今から自分がどこに行くのか、というビジョンが見えていれば大丈夫だ、と言うのです。
 これは私たちの人生にも当てはまることだとですよね。自分がどんな人生を歩んで、何を手に入れたいのかが見えてるかどうか、なのですね。

 第二図「見跡」自分探しの旅に出て、どこにも自己という牛はみつけられず、疲れ果ててもうダメだ、と想った時、牛の足跡を見つけます。それは本当の自分があることを外界からの「教え」を通して知る段階です。ありがたい「言葉」であったり、「〜について」の知識を学んだりします。資格・学歴・財産などを必死で得るひともあります。
 そして足跡を見つけて、これでもう自分は全部分かった、としてそそくさと帰る人もいます。

私はこれを知って、精神世界の様々な本をむさぼり読み始めた頃のことを思い出しました。そこには本当に美しい言葉が書かれていて、私を勇気づけてくれました。でも満足できるのは読んでいる時だけでした。

 私が初めて描いた方の第二図は、第一図同様やはり不気味な重苦しいエネルギーを感じさせるものでした。
 今回の第二図は、自分でも以外なことに大輪の花と散る花びらです。過去を振り返れば苦しくて歯を食いしばっていたことしか思い出せなかったのですが、先生の誘導を聞いていて、苦しい道を選ぶ必要は必ずしもないのだと気づいたら、花が舞っていました。これはとても嬉しいことでした。

 
第三図「見牛」「〜についての言葉」を一瞬ではあるが、五感で感じ取る。まだなりきっていない自分の真の姿をちらりと身体で体感する。仕事などの一時的成功があるが、何か物足りない。自信と不安、確信と動揺、決断と優柔不断、相反する感情が入り交じる。フラッシュフォワード(未来完了経験)これで分かったとして飛び跳ね、はしゃぎ、怪我をする人が多い。
 何かをつかんだ、という手応えと、それがするりと消え去った後の不安。

 初めて描いた第三図では、形に秩序が生まれてきます。描いていてすこし楽になった記憶があります。
 そして今回の第三図は、自分でも不思議でした。なぜかわからないけれど、タマゴを逆さにたてた絵が見えたのです。その絵を描いて眺めていて、なんとなく土星の輪のようなフラフープのようなものを加えました。何だかそうしたかったのです。
 後から気づいたのですが、それは見えたのではなく、逆さタマゴがあまりに不安定なので安定させたい、という意識が動いて描き加えてしまったのだと思います。自分の気持ちがそんな風に動くのだ、ということが私には新鮮でした。
 これも初めて描いたものとは随分感じが変わりました。

 その他、先生はたくさんの資料を用意されていて、息つく間なしの感動とショックの連続でした。
 中でも私のショックは
「才能が人を幸せにするわけではない」という気づきでした。
 私は今まで、自分には何かの才能があるはずだし、それをのばせば世の中でうまくいくし、役割も果たしていけると思っていました。もう少し正直に書くと、才能がなければ両親に認めてもらえないので、私には特別な才能があるべきでした。その特別な才能を求めて様々な勉強や体験をしてきました。
特別な才能さえ開花すればすべてがうまくいくと、心の中で強く強く思いこんでいたのです。
 私は自分を才能というもので証明する必要があったのです。それがとんだ思い違いだった。なんと不自由なつまらない生き方だったことか。
 私の中ではまだその余震が続いていて、ふとした瞬間に揺り戻しがやってきます。
 そしてこれからは自分を証明するのではない、違う生き方をしていけるのだと思います。